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- 第二章 ゲーム(競技)の意味を掘り下げる
-
- ──「規則を守って勝敗を競う」ということ──
-
- 「ゲーム=競技」という理屈はお分りいただけたでしょうか。何
- せ「ゲーム=遊び」という考えが圧倒的に優勢なので納得できない
- 方もいらっしゃるかと思いますが、とりあえず「ゲーム=競技」と
- いうことを認めていただいたとして、この章ではゲーム(競技)の
- 持つ意味を掘り下げて解説してみたいと思います。
- 第一章で述べたように、競技の本質とは「真剣勝負」もしくは「遊
- びまじり」などという競技者の競技態度とは無関係で「規則を守っ
- て勝敗を競う」ということにあります。競技の意味を掘り下げると
- いうのはつまりはこの文句の意味するところを堀り下げるというこ
- とです。
- 「規則を守って」という語句から明らかなように、競技には規則
- がつきものです。競技における規則は絶対的な力を持っていて、競
- 技者はそれから逸脱することは許されません。もしこの法を犯せば
- 待っているのは反則負けという結末です。この点で、守るべき規則
- など無いと言える殴りあいのケンカ(下品な例で恐縮です)のよう
- なものは、ゲーム(競技・試合)とはいえません。勝敗の関係する
- ものであれば何でもゲームであるということにはなりません。
- 「勝敗を競う」ということをよりゲーム的な言い方に直すと「そ
- のゲームにおける勝利条件(目標)を満たすか満たさないかの戦い」
- ということになるでしょうか。例えばプロ野球においては「相手方
- よりも多く点を取ること」が試合ごとの勝利条件であり、年間で最
- 高勝率を上げることがリーグ優勝の為の勝利条件であり、相手リー
- グの覇者に対して先に四勝することが日本一の為の勝利条件です。
- またモノポリーというゲーム(競技)においては「他人を全員破産
- に追い込むこと」が勝利条件であり、将棋の場合は相手の王将を動
- けなくする(詰める)ことが勝利条件であるといえます。それら個
- 々の競技(ゲーム)における固有の勝利条件を目指して最善の努力
- をすることが「勝敗を競う」ということであると言えるでしょう。
-
- ──「ゲームバランス」ということ──
-
- ところでそういうふうに勝敗を競うためには当然競技者の立場が
- 公平でなければなりません。例えばマラソンでスタート地点が選手
- によって何キロも離れていたらまともな勝負にはならない。またゼ
- ッケンが偶数の選手は軽装で構わないが、奇数の選手は重い荷物を
- 持って走らなければならないとしたら、これもやはり公平でないか
- ら競技にはなりません。どうしても荷物を持たせたいというのなら
- 全員が同じ重さの物を持って走らなければ公平にはならないし、し
- たがって競技にもなりません。このように競技(ゲーム)には競技
- 者の立場が公平でなければならないという鉄則があります。これを
- 「ゲームバランス」という言葉を使って、競技者の立場が公平であ
- れば「ゲームバランスが良い」不公平であれば「ゲームバランスが
- 悪い」と言います。しかしここでいう公平とは実は競技者の状態を
- ただ単に同じにするという意味ではなく、競技者の「勝利(これこ
- そゲームの目的です)に達する確率」をなるだけ等しくするという
- 意味であることに注意していただきたいと思います。詳しく説明し
- ましょう。
- 五目並べを進化・発展させた連珠というゲームを御存知でしょう
- か。このゲームの禁じ手は先手だけが対象とされる点で一風変わっ
- ています。将棋でいう二歩などが先手も後手も区別なく禁手である
- のに対して、連珠の禁手は先手のみに適用され、先手がそれを打て
- ば反則負けになってしまうのです(後手は自由)。しかも連珠の禁
- 手は二歩のように打たなくても済むものではなく、局面上重要なと
- ころを禁点にされて結局打つにも打てず負けてしまうということも
- 起こり得ます(この戦法を、禁手にハメルと言います)。それでは
- 黒を持った方が不利ではないかと思われるかもしれません。また実
- 際、先手だけに打てない手が存在するというのはそれだけを見れば
- 確かに不公平です。しかし実はこの不公平な処置が連珠をゲームと
- して成立させている。というのも連珠のゲームバランスは禁手がな
- ければ先手有利に傾いていて、禁手にうまくはめる戦法に通じてい
- ない初心者同士の対戦では大抵黒番が勝ってしまうとも言われるほ
- どなのです。そこでゲームバランス(両者の勝利する確率)を公平
- にするために先手のみに禁手を設けているのです。
- 理想的なゲームバランスは当然勝敗の確立が五分五分である状態
- です。そのゲームが真剣に行われれば行われるほど、大舞台で行わ
- れれば行われるほど五分五分という状態は重視されます。たとえば
- オリンピックにおける競技(ゲーム)などはまず五分五分のゲーム
- バランスを保っているはずです。勝敗を恐ろしいほど真剣に競って
- いるのだからバランスがしっかりしていなければならないのは当然
- でしょう。しかし、家庭内で遊びとして楽しむ競技の場合は多少許
- 容範囲があるようです。対戦用コンピューターゲームの中にはバラ
- ンスがとれていないものを多く見かけます。これなどは遊びとして
- 楽しむ場合がほとんどだから大目に見られるのでしょう(実は他に
- も原因があるのですが──三・六章を参照)。もっともいくら遊び
- だからといっても、片方がお話にならないほど強すぎるというのは
- 困ります。特に、ある側に必勝法が存在するというのは絶対に避け
- なければならない最悪の事態であり(ゲームバランスも最悪)何ら
- かの方法で必勝法を無効にする措置をとらないともはやゲームとは
- 言えなくなってしまいます。
- ゲームバランスについてまとめます。あるゲームにおいて同じ実
- 力を持った各競技者の勝利を収める確率(の比)をゲームバランス
- と言います。競技者の実力を「同じ」と仮定するのはゲームバラン
- スがゲーム固有の(競技者に左右されない)ものだからです。それ
- が50:50(即ち1:1)つまり同じ実力を持った者が対戦したとき
- その両名の勝つ可能性が等しい場合、ゲームバランスは五分五分で
- あり最上であるといえます。逆にある側が勝ちにくいことがはっき
- りしている場合、ゲームバランスは悪いと言えるでしょう。
-
- ──「勝敗の行方が見える」「見えない」──
-
- 同じ力を持つ二人(三人以上も可です)がバランスの整ったゲー
- ムを行うとします。その場合「勝敗の行方が見えない」と表現する
- ことが可能です。意味するところは「誰が勝者となるか予想できな
- い、勝敗の行方が分らない」ということです。逆に「勝敗の行方が
- 見えている」というのは「ゲーム(競技)を行う前から結果がほぼ
- 確定している、○○が勝つに決っている」という意味です。
- この「勝敗の行方が見える」「見えない」という言い方もゲーム
- を論ずる時必要になってくる表現です。「ゲーム性」というのは何
- が起こるか分らない、どういう結果が出るか最後まで予測できない
- という意味にもとれますから、それからすると「勝敗の行方が見え
- ない」方がより「ゲーム的である・ゲーム性が高い」と言えるでし
- ょう。
- 「野球は筋書きの無いドラマである」というのは、野球という競
- 技(ゲーム)が非常にゲーム性に富んでいることを示唆した言葉だ
- と解釈できなくもない。というのも「筋書き」があるならばそれは
- 「勝敗の行方が見えている」ことに通じそれだけ非ゲーム的である
- と解釈できるからです。またこの「筋書きの無いドラマである」と
- いう文句は褒め言葉です。ということは一般的に言って「筋書き」
- の無い方が、勝敗の行方が最後まで分らないほうが、つまりはゲー
- ム性が高い方が、ゲームはより面白くなると言えるのではないでし
- ょうか。常識的に考えても余りに一方的な展開というのは興味を削
- がれる因となります。これまた野球を例にとると、大量点差がつい
- た試合では最後まで見届けずに球場を後にする人が多くなることで
- しょう。どこかのチームが大差をつけて飛び出すと「パ・リーグの
- 灯が消えた!」などと紋切り型の表現が新聞を飾る。これも「優勝
- チームがほぼ『見えて』来た為にペナントに対する興味が薄くなっ
- た、つまらなくなった」ということだと解釈できます。
- ゲームバランスはそのゲーム固有のものであって従ってそれを考
- える時には競技者同士の実力差というのは無視しなければなりませ
- んでした。しかし勝敗の行方が見えるか見えないかということを考
- える時には競技者の実力とゲームバランスの双方を考慮する必要が
- あります。この項の最初に述べた様に、ゲームバランスが五分五分
- に整っていてかつ競技者の実力も伯仲しているならば勝敗の行方は
- 当然見えません。しかしゲームバランスが整っていても競技者の間
- に歴然とした力の差がある場合、勝敗は当然「見える」方向に傾き
- ます。例えば駒の動きしか知らぬ初心者と初段を持つ人とが対局す
- れば、まず間違いなく初段の人が勝ちを収めるでしょう。そんなこ
- とは勝負する前から分っている。ゲームバランスの整ったゲームに
- おいても、戦う前から「勝敗の見えた」状態は起こり得ます。
- 競技者の実力差の為に「勝敗の行方が見える」つまり最初から結
- 果がほぼ分ってしまうというのは仕方のないことではあります(競
- 技者の実力差の為でなくゲームバランスが悪い為にそうなるのは仕
- 方の無いことではなく、ゲームバランスを公平に調整しなおすべき
- ことです。連珠の例を参照)。しかし「勝敗の行方が見える」状態
- というのは、これまで述べた通り余り好ましいことではありません。
- 大体ゲームとは勝敗を競う為に行うものですから、かかる状態では
- ゲームをする意味が、またそのゲームに対する興味がはなはだ減じ
- られてしまいます。それでも対戦するとすれば勝敗を競う為という
- よりも初心者が稽古をつけてもらうといった意味合いの対戦になっ
- てしまうでしょう。
- しかし、あくまで窮余の一策としてですが、はなはだしい実力差
- が両者に存在しても純粋に勝敗を競うことは不可能ではありません。
- 方法はあります。ハンディキャップを加えるという方法がそれです。
- 例せば駒落ち将棋という対局方法がそれです。実力差に応じて上
- 手の方が飛車や角行や場合によっては金・銀の駒まで落としてしま
- う(参加させない)。これはつまり故意にゲームバランスを崩して
- しまうわけで、いわば破格の処置です。しかしこのようにわざと実
- 力の上の方を不利にすることによって、力の差があっても「勝敗の
- 行方が見えない」対戦が可能になります。しかしこれはあくまで窮
- 余の一策ですから、普通はこんなことは行われません。平幕力士と
- 横綱とでは実力は段違いです。そういうとき「勝負にはなりません
- ね」などと言うことがある。つまり「ゲーム(競技)にならない」
- ということです。「今日は(勝とうとするのではなく)横綱の胸を
- 借りるつもりで行きます」と平幕力士は言うかも知れません。勝敗
- はほぼ確定しているから、ゲーム本来の目的である「勝つ」という
- ことよりも「胸を借りる」すなわち稽古のつもりでぶつかるという
- 意味にとれます。それだけ実力差がありかつ勝敗の行方が確定して
- いても、プロ同士の対戦なのですからハンディなど無論ありません(先
- 手のみに禁手を設けてゲームバランスを正す連珠の方法と、ハンデ
- ィを用いてゲームの勝敗の行方を不確定にする方法とでは全く性質
- が違います。前者は競技を行う人に関係なくそのゲーム自体のバラ
- ンスの不公平なのを改良する方法であり、当然の処置です。後者は
- そうではなく、競技者の間に実力差がありすぎて勝負にならないの
- を一時的に何とかしようという仮の対策であり、均整のとれたゲー
- ムバランスをわざと狂わせるという破格の処置です)。
-
- ──ゲームを図解する──
-
- 言葉での説明だけでは分りにくいでしょうから、「ゲーム=競技」
- という観点からゲームを図解して、ゲームバランスと「勝敗の行方
- が見える・見えない」ということとを再説明します。
-
- 競技者
- |
- 競技者──勝 利(ゲームの目的)──競技者
- |
- 競技者
-
- とどのつまり、ゲームとは真ん中の「勝利(ゲームの目的)」を
- めぐっての複数の人間の競争であるといえます。もっとも競争であ
- れば何でもゲームであるということではなく、ここには「競技者の
- 勝利の可能性を等しくする為の平等な規則」が厳と存在している(図
- では省略してありますが)。ここがゲーム(競技)のゲームたる所
- 以です。この平等な勝利への距離(「競技者」と「勝利」を結んで
- いる棒線のこと)が、
-
- 競技者──────勝利──競技者
-
- のように甚だ異なっている状態を「ゲームバランスが悪い」と言い
- ます。この場合、当然「勝利」により近くにいる人(図の下側)の
- 方が勝ちを得やすいと言えますから、それだけ「勝敗の行方が見え
- ている・明らかである」と表現できます(競技者の実力が等しいな
- らば)。一般的に言ってゲームバランスの悪いのは「勝敗の行方が
- 見える」ことに結びつきます。
- 「ゲームバランス」の項で引き合いに出した連珠というゲームは
- 昔は囲碁と同じ十九道の盤を用いていました。ところがそれだとど
- うも先手有利になってしまうことが分ってきた(ゲームバランスと
- いうのは何か機械を使って測定するわけではありませんから、経験
- によってどうも先手が有利だということが分ってきたのだと解釈し
- て下さい)。つまり十九道の盤を用いた時のゲームバランスは、
-
- 先手(黒盤)──勝利────後手(白盤)
-
- となっていたのです。これでは公平ではない。勝敗を公平に競うこ
- となどできません。そこで盤を改めて十五道とし、併せて先手の四
- 四(石が四つ並んだ状態を一度に二ヶ所作ること)を禁手としてゲ
- ームバランスを整えたのです。ゲームの世界における「公平」とい
- うのはただ単に状態が同じであることを意味するのではなく、「同
- じ力を持った複数の競技者が勝敗を公平に競える立場にある」こと
- であることをもう一度強調しておきます。両者の状態が同じでなく
- とも(連珠の様に一方だけに禁じ手が設けられていても)勝利への
- 距離が等しいならばそれは「公平」なのです。
- ここまでは競技者の力をみな同じものとして解説してきましたか
- ら(ゲームバランスの説明だったからです)、次に競技者の実力差
- をも考慮して「勝敗の行方が見える」「見えない」ということを図
- 解し説明します。
-
- 競技者──勝利──競技者
-
- こういう公平なゲームバランスを持つ競技(ゲーム)を、甚だし
- く実力差がある二人が行うとなると、実際のところ、
-
- 実力上──勝利──────実力下
-
- こうならざるを得ないでしょう。「勝敗の行方が見えている」状態
- です。これを何とかしようというのが前に説明したハンディキャッ
- プという仮の方法でした。実力差のある二人が将棋を行うとすれば、
-
- 段・級位者-勝利──────初心者
-
- ということになって勝敗の行方はほぼ確定しています(これは将棋
- におけるゲームバランスとは無関係です。念の為に)。ここでハン
- ディとして段・級位者の駒を落としてしまうと、
-
- 段・級位者──────勝利──────初心者
-
- となり勝敗の行方は不確定となってそれだけゲームらしくなるので
- す。しかしこれはあくまで仮の処置であってプロ同士の対戦などに
- は(たとえ実力差がはっきりしていても)用いられません。何故か
- といえばこれはゲームバランスを破壊する方法だからです。
- 将棋はバランスのよく整ったゲームです。図示すると、
-
- 競技者──勝利──競技者
-
- となり、勝利への距離は両者平等です。ここで一方の側の駒を落と
- すということは、
-
- 競技者──勝利──────競技者(駒落ちした側)
-
- ということになる。駒を落とせば落とすほど棒線は長くなります。
- ハンディキャップを加えるとはゲームバランスを不均衡にする方法
- であるという意味が分っていただけたでしょうか。こうしておいて、
- 実力の上の者が不利な側(駒落ちした側)を持てばうまく相殺され
- て勝敗の行方が不確定になるという寸法です。けれどもゲームバラ
- ンスはおかしいままですからこれはあくまで仮の措置であってプロ
- 同士の対戦などという真剣そのものの勝負においては用いられるこ
- とがないのです。
-
- ──ゲームにおける目的──
-
- あるいは真っ先に触れるべきだったのかも知れませんが、遅れば
- せながらここでゲームの目的について詳しく述べます。といっても
- 何も改まることもなくもうお分りかもしれません。これまでにも多
- 少触れてはいますから。「規則を守って勝敗を競う」という言葉で
- 定義されるゲーム(競技)の目的とは、文字通り「勝つ」ことです。
- 勝利することです。当たり前すぎるほど当たり前の話で、説明も要
- らないことだと思います。それなのになぜわざわざここで取り上げ
- るかといえば、実は「ゲームの目的は勝利することである」と言う
- と抵抗を受ける人がいるからなのです。ことにゲームファンやマニ
- アを自認する人にそれが多い。数年前に私があるゲーム雑誌上で「ゲ
- ームとは何か」という題で論争をした時にも「ゲームの目的は勝利
- することである」という私の主張に対して多数のゲームファンやマ
- ニアから反論をいただきました。その論争は主として雑誌側の都合
- でうやむやに終ってしまいましたが、この本はゲームに興味のある
- 方すべてを対象にしていますから、かかるマニアたちの誤解を解く
- 意味でも疑問を残さず説明しましょう。
- ゲームファンたちの私に対する反論は一貫していて、「ゲームの
- 目的は勝利することである」という私の主張が余りにも一面的すぎ
- るというのです。「勝敗よりも大事なものがないか」「楽しくかつ
- 有意義な時間を過すことがゲームの真の目的ではないのか」と彼ら
- は言います。「ゲームの目的は、その展開を楽しむことにある」と
- 述べた人もいました。思うにこういう発想はゲーム本来の目的と、
- それを行う人の個人的な目的(大目的)との区別がついていないか
- ら出てくるのでしょう。詳しく説明します。
- 趣味で行う日曜大工の目的は何かと問われたらどう答えればよい
- でしょうか。もちろん、大工なのですから、椅子や簡単な家具をこ
- しらえることだと答えて間違ってはいないでしょう。この「家具を
- 制作すること」というのは日曜大工の本来の目的であり、いわば小
- 目的です。なぜ小目的かというと、日曜大工は仕事ではなく余暇の
- 楽しみとして行うものですから、家具などを制作する喜びを覚えて
- 「有意義な時間をすごしたい」砕いて言うと、家具制作を通じて「楽
- しみたい」というもっと大きい個人的な目的(願望)が存在してい
- るはずだからです。
- この「楽しむ為」「有意義な時間を過す為」という個人的な目的
- は良く考えれば明らかなように、実はすべての趣味をする時に通じ
- る大きな大きな目的であるといえます(だから大目的と表現しまし
- た)。およそ趣味というものは楽しむ為に又有意義な時間を過す為
- にするものだからです。したがってこの大目的は、その趣味自体の
- 持つ本来の目的とは区別すべきでしょう。例えばジグソーパズルの
- 本来の目的は、破片をうまく並べて整った一枚絵を完成させること
- です。ではなぜ人がジクソーパズルをするのかといえば、絵を完成
- させるという作業を通じて有意義な時間を過したいが為であり、つ
- まりは楽しむ為と言えます。たとえ有意義な時間でなく「ひまつぶ
- し」であったとしても、本人が好きで(楽しんで)やっていること
- には変わりがないはずです。つまり「楽しむ為に」ということ、こ
- れが大目的です。そしてこの「楽しむ為に」という大目的はジグソ
- ーパズルの目的ではなくパズルを行う個人の目的又は願望と言うべ
- きであり(だから楽しむということ自体も時には別な何かに取って
- 代られるかも知れない)、したがって「絵を完成させる」というジ
- グソーパズル本来の目的とは区別しておかねばならないでしょう。
- このことをごっちゃにして「ジグソーパズルの目的は絵を完成させ
- ることにはなく楽しむことにある」と考えるのは正確さを欠きます。
- 「楽しむ為」という大目的と、ある趣味本来の目的との関係をご
- っちゃにせず正しく言葉に表すと「その趣味における本来の目的を
- 達成させる作業を通じて大目的を達成する」つまり「本来の目的を
- 達成させる作業を通じて(その人が)『楽しむ』」ということにな
- るでしょう。ゲームの場合であれば、人はゲームの本来の目的であ
- る「勝利」を達成させる作業を通じて楽しむと解釈するのが的を得
- ており、「楽しむ為」という大目的は個人の目的・願望であってゲ
- ーム本来の目的でないことは明白です。「ゲームの目的は、その展
- 開を楽しむことにある」という意見は的はずれなのです。いや、大
- 体「勝利」を達成しようとしなければ、つまり「勝とう」としなけ
- れば、ゲームにはならないのです。視点を変えて、次にそのことに
- ついて解説しましょう。
- 例えばモノポリーというゲームをする場合、競技者(遊戯者では
- ない)の第一歩はどこかの土地の権利書を手に入れることです。そ
- れが成らないときは収益を増すことは不可能で、やがて破産するだ
- けでしょう。だから何としてでも権利書を手に入れなければならな
- い。これは当然です。もしもその努力を怠れば、ただサイコロを振
- って無抵抗に破産するのを待っているに過ぎず、これでは何の為に
- ゲームをしているのか分りません。具体的な例を挙げると、ある人
- が手頃な価格の土地のマスに止ったとします。資金も十分ある。ど
- う見ても「買い」の状況です。にもかかわらず「いらないよ、勝つ
- 気なんて無いから」あるいは「面倒だからどうでもいい」などと言
- って無視したら(権利を得ようとしなかったら)どうなるでしょう
- か。「やる気があるのか?」と非難されるのは当たり前です。そう
- して結局権利書を手に入れずにずるずると資金を減らして挙句に破
- 産してしまったとしたらどうでしょうか。誰だって「何の為にゲー
- ムをやっているんだ?」と思うことでしょう。
- ところで、ここが重要なのですが、それはなぜなのでしょうか。
- なぜ、モノポリーをするとき土地の権利を得ようとしないと「何の
- 為にゲームをしているのか分らない」事態になってしまうのか。こ
- れはゲームの根本に関わってくる大問題です。
- その理由はただ一つ。土地の権利を故意に得ようとしないという
- ことは「勝つ」ことを放棄することになるからです。勝負がほぼ決
- った終盤ならともかく、序盤早々に「勝ち負けなんぞどうでもいい」
- と言わんばかりの態度を見せることはゲームの倫理に反しています。
- 十点差もついた野球の試合、しかも九回裏最後の攻撃ともなれば
- あきらめの気持ちが出てきて当然です。初球を簡単に打って出て凡
- ゴロ、あっさりと見逃して三振してしまうことも、まあ仕方のない
- ことでしょう。勝敗の行方もほとんど見えていますし。けれども最
- 初の攻撃からこんなことが行われたとしたらどうでしょうか。それ
- こそとんでもないことです。では何故とんでもないことなのか。な
- ぜ序盤から「勝ち負けなんぞどうでもいい」と言わんばかりの態度
- を見せることがゲームの倫理に反するのか。それは「勝つ」ことを
- 目指してゲームをすることがゲームにおける道理であって、初回早
- 々からゲームを捨てることはその道理に反することだからです。
- 「勝つ」ことが目的でゲームは行われる。だから「勝とうとしな
- い」ことはその目的にまっこうから逆らうことになり「何の為にゲ
- ームをしているのか分らない」状態になってしまうのです。ゲーム
- のこういう特色を一切無視して「ゲームの目的は展開を楽しむこと
- にある」と言ってしまうのは短絡的な発想です。
- そう、ゲームは「勝つ」為にするものなのです。もちろん「楽し
- む」為にするのですが、あくまで「勝敗を競う中で」つまり「勝と
- うとする中で」楽しむものなのです(だから「勝つ」ことはゲーム
- 自体の目的であり「楽しむ」ことは競技者がそのゲームを通じて得
- たいと思っている願望であると言える)。
- 一つ断っておくと、この「勝とうとする」というのは、しゃかり
- きになって「絶対勝つんだ!」と言わんばかりの態度を見せること
- を指して言っているのではありません。競技者の勝利に対する意欲
- の程度を云々しているのではなく、ゲームにおいてはすべての行動
- が「勝利」につながってくるのだということを指して言っているの
- です。──モノポリーをする場合、土地の権利書を手にしないこと
- には話にならない、このことは今述べました。では、一体何の為に
- 権利書を買わなければならないのかといえば、それは当然「勝つ」
- 為に権利書を手にしなければならないのです。ということは権利書
- を手にいれることは「勝とうとすること」だと言える。なぜ、モノ
- ポリーでは定期収入を得ながら土地を買わなければならないか、そ
- れは当然「勝つ」為でしょう。なぜ買った土地に家やホテルを建て
- るのか、当然収入を多くし又そこに停った他の競技者を破産に追い
- 込む為、つまりは「勝つ」為ではありませんか。だから土地を買い
- 続けるのも、買った土地に家やホテルを建てるのも、みな「勝とう
- とする」ことだと言えます。他のゲームでも同じことです。なぜ野
- 球で球を打ち返さなければいけないのか、なぜ麻雀などで手役を揃
- えようとするのか、それはすべて「勝利」のためではありませんか。
- ゲーム上の行動はことごとく「勝利」につながって来る。逆にそれ
- に反したらどういうことになるのか、勝敗を気にしなくなるとどう
- いうことになるのか考えてみてください。何でもないサーブを平然
- と見逃して相手にサービスエースを与えるテニスプレーヤーがいた
- らどうでしょうか。ポーカーで最初からフラッシュが来ているのに
- カードを取り替えるギャンブラーがいたらどう思いますか。そんな
- ことをしたらゲームというものは根底から崩壊してしまうではあり
- ませんか。だからサーブを拾うのも、揃ったカードを取り替えない
- のも、みな「勝とうとすること」だと考えて良い。いや、ゲーム上
- のすべての行為が「勝とうとする行為」だとは言えないでしょうか。
- 中には余裕を見せて「遊ぶ」人もいますが、わざと負けるわけには
- いきませんから(わざと負ければ八百長になる)、そういう人でも
- 「ある一線」は絶対に越えられないはずです。もし越えるとなると
- それはサーブを拾わないテニスプレーヤーと同じことになる。
- 以上の考察から、恐らくこういうことが言えるでしょう。すなわ
- ちゲーム(競技)を始めた瞬間からすべての競技者は(勝ちたい、
- という意欲の程度にかかわらず)その競技の目的である「勝利」に
- 向かって進んでいるのだ、と。そして楽しみというのもその道のり
- の中に見出すべきことなのであって、「勝利への努力」ということ
- を抜きにして楽しみも何もないのだと。つまりは「勝利(ゲームの
- 目的)を達成させる作業を通じて人は楽しむ」のであって、これで
- 分るとおり、「勝利」を達成することはゲームの本来の目的であり、
- 「楽しむ」ことはゲームを行う個人の目的(又は願望。何か他の理
- 由に取って代わられることもありうる)なのであると。
- しかしこの結論にゲームマニアの何名かは次のように異を唱える
- かもしれません。「ゲームにおいては楽しむことが一番大事なこと
- ではないか、自分が楽しいならば負けたってよいではないか、『勝
- 利』に余りに拘泥する必要はない!」と。
- これに対してはこう答えましょう。確かにゲームに負けても楽し
- いと感じることがあるのは事実です。ああ、ここまでやれたんだ、
- 負けても悔いなし、負けはしたが実に楽しかったと思うことはあり
- うる。だけれどもそれはあくまで勝利を目指して努力したが及ばな
- かったということであって、はなっから勝敗を度外視していたわけ
- ではありません。故に「勝利(ゲームの目的)を達成させる作業を
- 通じて人は楽しむ」ということと矛盾しないのです。なぜならその
- 人は勝利を達成しようと努力したはずであり、結果においてそれが
- 叶わなかったにせよ「勝利を達成させる作業を通じて」楽しんだこ
- とになるのですから。
- ……頑固なゲームマニアの「ゲームの目的は楽しむことだ!」と
- いう声がなおも聞こえてきそうなので、もう少しだけ追加しましょ
- う。
- 大体、主観に左右される「楽しむ」ということをもってゲームそ
- の他の目的とするのは無理があることではないでしょうか。ゲーム
- の持つ本来の目的というのはそのゲームの競技者の心理(楽しんだ
- か楽しまなかったかということ)とは別個に独立して存在するもの
- であるはずです。ゲームに限らず何についてもそう考えるべきでは
- ないでしょうか。
- 先に例としたジグソーパズルをもう一度引き合いにだすと、絵を
- 完成させることがジグソーパズルの本来の目的なのであり、とにか
- く絵が完成してしまえば(本人の心理に関係なく)ジグソーパズル
- の目的は達成されたことになります。この「絵を完成させる」とい
- うのは客観的なことで個人の主観など関係ありません。他方その人
- がパズルの過程で楽しめたかどうかというのは主観的なことです。
- この場合、ジグソーの本来の目的は主観的な「楽しむ」ことにある
- のではなく、客観的な「絵を完成させる」ことにあると考えるべき
- だと私は言いたいのです。次の例はどうでしょう。
- ──ある人は絵が完成するまでとうとう「楽しい」とは感じなか
- った。またある人は絵の方は未完成に終ったがパズルの間「楽しく
- て」仕方がなかった──
- この場合、もし「展開を楽しむ」などという主観的なことをもっ
- てジグソーパズルの目的とするのなら、前者は絵を完成させている
- のに「ジグソーパズルの目的を達成出来なかった」ことになるし、
- 後者は中途で挫折したにもかかわらず「パズルの目的を達成できた」
- ことになってしまう。変な話ではありませんか。当然ゲームの場合
- でも理屈は同じはずで、個人の心情に左右される「展開を楽しむ」
- ということをゲームの本来の目的と考えるのはおかしなことなので
- す。
- (念の為に──勝利することがゲームの本来の目的であるとはい
- っても、人がゲームを行うのは実のところ楽しみたいが為であるの
- は無論のことです。いくら勝つ自信のあるゲームでも面白くないも
- のはする気にならないでしょう。ゲームをして勝ったんだが退屈だ
- ったという場合と、惜しくも負けはしたが大変楽しかったという場
- 合とを比べると、やはり後者の方に多くの価値や意義を認めざるを
- 得ません。「勝利する」というゲーム本来の目的と「楽しむ」とい
- う個人の目的とを比べると当然後者の方が大事だといえるでしょう。
- けれども、ゲームにおける目的を達成したかどうかという事とその
- ゲームが個人的に満足できたかどうかという事とは別です。勝ちは
- したが退屈だったという場合、とにかく勝ったのだからゲームの目
- 的は達成したものの、同時に退屈だったのだからそのゲームに余り
- 魅力を感じなかったということになります。言い換えると、ゲーム
- の目的の方は達成したが「楽しむ」という個人的な目的、つまり何
- 故そのゲームをしたかったのかという大目的の方は達成できなかっ
- たということになりましょう。反対にゲームをして惜しくも負けた
- が実に楽しかったという場合、負けたのだから「ゲーム上の」目的
- は達成できなかったことになりますが、他方で楽しかったというこ
- とはそのゲームにその人が価値を認めることができたということで
- す。私はゲームにおいて「楽しむ」ということを否定しているので
- もなければその価値を無視しているのでもなく、「楽しむ」という
- ことはゲームの本来の目的ではないと言っているだけです。反対に
- 「勝利する」というのはゲームの本来の目的ではありますが、ゲー
- ムのすべてではありません。このことを誤解しないで下さい)
-
- ──まとめ──
-
- ゲーム(競技)について長々と説明をして来ました。一般常識で
- はゲームとは単なる遊びに過ぎないものですから、これまで示した
- 様なゲームに対する論理的な説明や解釈を奇妙に思われる方も多い
- ことでしょう。
- それにしてもゲームというものは我々の生活の中に昔から溶け込
- んでいるのに、その本質を正しく理解している人の少ないのは全く
- 不思議なことです。ゲームを単に遊びだと解釈している人は、麻雀
- など大人向けのゲームの存在を知りながら同時に「ゲームは子供が
- するものだ」という迷言を吐く。一方、数少ないゲームマニア(特
- にボードゲームマニア)の方はゲームをとかく美化・神格化してし
- まう傾向があり、論理性に大いに欠けるゲーム論をまことしやかに
- 解説したりする。今はどうか知りませんが、昔のボードゲームの雑
- 誌には「RPG(ロールプレイングゲーム。会話主体でドラマを演
- じるように行う。大人気のファミコンソフト「ドラゴンクエスト」
- はコンピューター版RPG)は一種の『文芸』である」というゲー
- ム評論家の文章や、「優れたシミュレーションウォーゲーム(主に
- 実際にあった戦争を盤上に再現した戦略・戦術ゲーム。ある新聞に
- 若者の右翼化の現れなどと叩かれました)は歴史論文と同等の価値
- を持つ」などという大学院生の投稿など、贔屓の引き倒しのような
- ものがよく掲載されていました。つまるところゲームの正体が競技
- であることを知らない為に、又「楽しむ」などという個人の問題を
- ゲームの本質的要素と勘違いしている為に、筋道通ったゲーム論を
- 組み立てられないでいるわけです。一人のボードゲーム愛好家とし
- てこれでは余りに情けない話なので、ここに整ったゲーム論を確立
- しようと思った次第です。
- ゲームとはつまり競技であります。その競技の本質とは「ある規
- 則に従って勝敗を競う」ことに尽きます。何度も強調したことです。
- つまり何らかの平等な規則があり一定のゲームバランス(両者の勝
- 利に達する確率)が備わっていればどんなものでもゲームであり競
- 技であると言えるのです。「○○ゲーム」と題されて売られている
- 物ばかりがゲームではない。ゲームは遊びであるという固定観念を
- 崩していただく為に、意外な例を挙げましょう。
- 例えばジャンケンを考えてみてください。ジャンケンも次の様に
- 考えてみるとゲーム(競技)だと言えるのです。
- まずジャンケンには「グー・チョキ・パーのいずれかを両者同時
- に出す」という平等な規則があります。同時に出さないと不平等に
- なってしまうので「後出し!」と言われてもう一度仕切り直しとな
- る。しかも「グーはチョキには勝つがパーには負ける、チョキはパ
- ーには勝つがグーには負ける、パーはグーには勝つがチョキには負
- ける」というふうにうまく三つ巴になっているのでバランスもとれ
- ている。勝敗の行方は不確定になっています。これが「グーはパー
- にもチョキにも勝つ」ということになると、ゲームバランスは「グ
- ーを出せば少なくとも負けることはない」と、半分確定した状態に
- なってしまうので競技にも何にもなりはしません。以上見たように、
- ジャンケンには平等な規則が存在し、ゲームバランス(両者の勝利
- する確率)も五分五分にとれていて、かつ勝敗の行方も見事に不確
- 定(見えない状態)です。──これを「ゲーム」と呼ばずして何と
- 呼ぶのでしょうか。しかし、ゲームの本質を遊びだと考えたり、ゲ
- ームの目的を「展開を楽しむこと」だと錯覚している人には意外な
- ことでしょう。ジャンケンなぞ、余りに単純で遊びにもならないし
- 展開を楽しむこともまず出来ません。けれども「規則を守って勝敗
- を競う」というゲームの定義からすると、ジャンケンをゲームだと
- 考えない法はないのです。
- ゲームという言葉に何となく優しく楽しい雰囲気を感じる方はさ
- ぞかし多いことでしょう。それも「ゲーム=遊び」という誤認のな
- せる業です。この感覚も「ゲーム=競技」という正しい観点から見
- 直す必要があります。とにかく平等な規則が備わっていてゲームバ
- ランスが整っていればどんなものでもゲームと言えるのですから。
- 背中合わせに向き合いゆっくりと三歩数えながら歩き、振り返り
- ざまに拳銃を抜く──誰でも承知の決闘場面です。野蛮といっても
- 差し支えない行為でしょう。ところでこの決闘も、よく考えるとゲ
- ーム(競技)であると言わざるを得ないことにお気付きでしょうか。
- モノポリーという盤ゲーム(盤上競技。従来の訳「盤上遊戯」は
- 誤り)は結局「誰が一番お金を稼ぐことができるか」ということを
- 競っているのだといえます。野球の試合は「どちらが得点を多く取
- れるか」ということを競っている。決闘の場合は「どちらが速く拳
- 銃を抜いて相手を撃つことができるか」ということを競っているの
- です。これらを公平に競う為にはしっかりした規則がなければなら
- ない。逆にいうと、公平な規則が存在しゲームバランスがしっかり
- していればそれはゲームであるといえるのです。その勝負がどんな
- に野蛮なものであろうとも。
- まず「平等な規則の存在」という点について。これは両者が同じ
- 間隔で数を数えることがそれに当たります。早口で数を唱えるのは
- ルール違反です。もしそれが許されれば「どちらが拳銃を速く抜け
- るか」ということが公平に競えなくなるからです。仮にそのことを
- 許せば早口の方がどうしたって有利でしょう。これでは「どちらが
- 早口で数を勘定できるか」というゲームになってしまう。次にゲー
- ムバランスについて考えると、両者の状態が同じなのですから勝ち
- を収める可能性も当然五分五分であるといえます(両者の拳銃の腕
- 前が五分五分であると想定した場合です。ゲームバランスを考える
- 時は、前にも述べた様に、両者の実力を五分五分と仮定して考えま
- す)。つまり決闘ですらもゲーム(競技)と考えられるのです。
- 一種の殺し合いである決闘すらもゲーム(競技)であることが分
- ると、「ゲーム=遊び」という考えがゲームの本質を捉えたもので
- はないことが一層明らかになります。一体決闘のどの部分に「遊び」
- なる要素が存在するでしょうか。ゲーム=競技、と考えてこそ、決
- 闘をも「ゲーム(競技)である」と言えるのです。
- ところで「遊び」の要素が全く無くなってしまうのは何も決闘に
- 限ったことではありません。前にも記したようにどんなゲームであ
- っても恐ろしく真剣に勝負を競っている場合(決闘の場合はその極
- 端な例であると言えます)、遊びの要素は吹っ飛んでしまうでしょ
- う。あくまで仮の話ですが、例えばモノポリーに全財産をかけて競
- うとするとどうなるでしょう。これはもう遊びなどというもんじゃ
- ない。高額レートの賭け麻雀でも同じことがいえます。ゲームが終
- りに近付きどちらが財産を失うかはっきりしてくると、両者(もっ
- とも三人以上でも構わないのですが)の間は会話も満足に交わせな
- いほど険悪になってくるに違いない。一体こういう状態のどこに「遊
- び」を見出すことが出来ましょうや。けれども二人は紛れもなく、
- モノポリー(または麻雀)という「ゲーム」をしているのです。遊
- びの要素がかけらも無くとも、両者は「ゲーム」をしているのです。
- 洋菓子というのは甘いものであると相場が決っています。しかし
- 「食べ物」ということで考えると、食べ物の中には甘くない物もあ
- るのは当然のことです。辛い物もあるし、渋い物もある。それなの
- に「甘い味がする洋菓子のみが食べ物である」と限定するのはおか
- しい。ゲームも同じです。いま大方の人はファミコンゲームやモノ
- ポリーやトランプゲームなど、遊びの要素をふんだんに含んだ物の
- みをもってゲームだと考えている、「ゲーム=遊び」だと考えてい
- る。これはちょうど砂糖をふんだんに使った洋菓子のみが食べ物で
- あると考えているようなものです。ゲームの中には味もそっけも無
- いようなものもあるし(例、ジャンケン)、殺気立つような恐ろし
- いもの(例、決闘)もあります。食べ物に話を戻すと、人体に特に
- 害がなくて食べられるものであればそれは食物だと言えるでしょう。
- 甘いか辛いか、そういうことは食べ物であるかないかということに
- 関係しない。それと同じく「あることを公平に競える規則」が存在
- し「両者の勝利する確率(ゲームバランス)」がきちっと整ってい
- れば、どんなものでもそれは競技でありゲームなのです。勝負を真
- 剣に競っているか遊びまじりで競っているかということはゲームで
- あるかないかということと何の関係もありません。それらの要素は
- ゲームの本質ではなく二次的なものに過ぎないのです。
- これでゲームの基本的な性格について大体説明を終えました。「ゲ
- ーム=遊び」という固定観念が多少なりとも崩れて「ゲーム=競技」
- という解釈に慣れていただけたならば幸いです。次の章ではこれま
- での論をもとに発展的にゲームについて話を進めたいと思います。
- いうならば「理論編・応用の部」といったところです。
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